ジョギング雑談_小西史観
ジョギングを始めてみて
昨日、朝早く起きて、水をたくさん飲んでからすぐに外に出てジョギングをしてきた。 一日中、いつも通り朝9時に出勤して夜7時に帰宅したのだが、不思議とまったく疲れを感じなかった。 これがジョギングの効果なのか? いや、そんなにすぐ効くものだろうか。
そして今朝も、問題なく6時15分ごろ起きられた。えらい👏!
時事情報と私
ジョギング中はずっとAと話していたので、思ったより時間が早く過ぎた。 私は普段あまりニュースを見ない。時事や政治にはほとんど無関心で、率直に言えば「何も知らない」に近い。中国の時事はもちろん、日本の流行や大きな出来事も耳に入ってこない。
そんな私に、Aは今朝いきなりこう切り出した。 「知ってる? 最近炎上した、AIが自殺を煽る問題」 Aはこうした話題に関心があり、ちょうど私とはいいバランスをとっているのだと思う。
私は知らなかったので、素直に聞いてみた。時事を知らなくても、知ったうえで語り合うのは好きだ。だから、Aも私とこういう話をしたいのだろう。
真実は存在するのか
「真実」というものは色のようなものだ。みんなが語ってはいるけれど、そもそも存在しない。ただの「信念のインフレ」にすぎない。
私は、物事の良い面も悪い面も両方見るのが好きだし、批判や暴論を交えて考えることもある。むしろ、両面を考慮したうえでしか自分の意見は生まれない。その種は事実ではなく、自分の信念であり、言い換えれば価値観だ。つまり、社会や世界、物事の成り立ちに対する自分なりの理解である。
情報は事実や真実に直接つながるものではない。限られた情報は、信念の土壌となり、それをもとに加工されて最終的に自分の中で「観念の積み木」となる。だから、私にとって情報への「信頼」はさほど重要ではない。むしろ、自分の中で築かれた信念も間違っていて当然だと思う。
そもそも情報は流通する過程で必ず歪みが生じる。それはやむを得ず、情報というものの性質の一部なのだ。Aから聞いた話だけでなく、すべての情報は、最終的に「私の捉え方」に変換される。
だからこそ、私にとって「自分に関わらない情報」そのものはあまり意味がない。大事なのは、その内容について語るときに、私と相手がどんな観念や信念、態度を示すかだ。
楚人と大国の夢
ここからは暴論、いや冗談だ。
Aとの次の話題は「どちらの流派がより社会に貢献しているか」というものだった。
Aは「真実は今の教育とは全然違う」と主張し、私は「自分の体感ではそうではない」と答えた。
そこで私は、地元に有名人が多い理由をこんなふうに説明した。
「そもそも、うちの楚人は、この何千年間、一度も大きな国になったことがない。 そのせいで、みんな『自分たちの話を世界に届けたい』と思うんだ。 もし他の地域のように大国だった時期があれば、一生その時代を振り返って浸っていただろう。 それこそが根本的な理由だ。」
するとAは大笑いして、
「なんだそれ、西ちゃんの歴史観? 斬新すぎる! 聞いたことないわ! マジ天才」
と言ってくれた。